ばちがあたる
October 18, 1997
10月の給料日も終わったし、もう11月もすぐそこだ、そうなればThanks Givingがやってくる。するとクリスマスがやってきて、今年ももう終わりである。はやいものだ。
さて、Thanks Givingといえば、私がアメリカ留学中にかなり強烈な印象として残っている出来事があった。Thanks Giving休暇に同級生の友人宅で七面鳥のディナーを食べたときに、料理を仕切っていた友人の一人が「やすし、お祈りをするけど、何か問題ある?」と聞いてきた。多くのアメリカ人はクリスチャンで、日曜日に教会にかようことは特別のことではないし、食事の前にお祈りを捧げるのもよくある話だ。
彼はクリスチャン式のお祈りをするけど何か宗教上問題ある?と聞いてきたのである。私は一瞬驚いて「いや、OKだよ。」と返事をするのが精一杯であった。普通、日本人の多くは宗教ということを日常の生活の中で感じることはほとんどない。せいぜい葬式の時くらいだろうし、それも宗教として感じるというよりも、お坊さんを見るといった程度のことである。
私の同級生は信心深い人達が多く、時折日本人の宗教観の話をしたりしたものだ。いままで彼らは何人かの日本人留学生に日本人の宗教観について質問をしていたのだが、どうも納得のいく答えが見つかっていなかったらしい。宗教を持つ人々にとって、人間は3種類に分類されるという。1つは同じ宗教を信じる同胞。2つめは異なる宗教を信じる異教徒。3つめは信じる宗教を持たない無神論者。最初の2つは人間として扱ってもらえるが、最後の3つめは彼らから見ると人間とは思えないらしい。
私は彼らに、「日本にだって決して宗教がないわけではないよ。人知を越えたものに対する敬虔な思いは日本人にも強くある。たまたま日本人が信じるものが一神教ではなく多神教というだけなんだ。日本には神様が800人はいるんだぜ。ジーザスクライストもマホメットもその一人だ。」といったような回答をした。彼らが私の回答を本当に理解したかどうかは定かではないが。
社会が秩序を維持していくために人知を超える存在に対する敬虔な気持ちは重要な役割を果たすはずだ。たとえば西欧社会では、人間界で嘘をつきとおすことができても、神の前ではそれは通用しないという考え方があり、これは社会に一定の秩序と安寧を与えるために大きな役割を果たしている。
日本でも同じようなことは核家族化が進む前には当たり前のこととしてあったはずである。それは「ばちがあたる」という言葉に凝縮されている気がする。一体誰が「ばち」を当てるのか。その答えをしっている人はいない。しかし、小さい頃から祖父母などに「そんなことをすると、ばちがあたるよ」と言われることによって、人を超えた絶対者としての存在が常に人の振る舞いを見ているのだという気持ち、ある意味では日本人の根源的な宗教観、を植え付けられていたのだろう。