ネット日本語?
December 14, 1997
昔アメリカに住んでいたころの録画したテレビ番組のビデオを見ていたら気になる会話があった。
先生の部屋に入ろうとしている生徒と先生の会話である。
生徒:"Can I come in?"
先生:"Of course, you can but you may not."
というやり取りだ。
何だか違いがわからない人に説明しよう。目上の人に向かってものを頼む際にはMay Iという言い方を使うのが適当な言い方で、Can Iというのは失礼にあたるのだ。May I ...もCan I ...のどちらも「何々してよいですか?」という意味であるが、Canの方は可能か否かということで、Mayは許可されるかされないかというニュアンスを含むからである。したがって上の会話は「私は中に入ることが(可能)ですか?」「もちろん可能だが、許しはしないよ」という趣旨になり、先生が生徒に向かって言葉の遣い方をたしなめているワンシーンとなる。
英語に敬語は無いと言うが、それは全く誤った考え方であろう。人と人との関係があるところに、その関係に応じた言葉遣いの区別が無い言語などあるわけがない。話が違う方向へ行きそうだから軌道修正をするが、今日の言いたい放題は別に英語のレッスンをするのが目的ではない。ネットの上での言葉遣いについて思うことを述べるつもりで上の例を取り上げた。
今まで多くの人にとって言葉を遣うことは、常に相手と自分の関係を明確に意識した行動であった。誰かと面と向かって話をするときには目の前に相手がいるわけだし、電話だって同じだ。手紙を書けば、それを受け取って読む人のことを意識していたはずだ。新聞、雑誌関係者、作家、ライター等以外の普通の人が匿名の人間を相手に言葉を遣うことなんてほとんどありえなかった。まあ、通りで誰彼かまわずに喧嘩を吹っかけたり、でたらめに電話をかけ暴言を吐いたり、訳のわからない住所に無礼な内容の手紙を送ったことがあるという人もいるだろうが、普通の感覚から行けばそんな人は早いところ病院にでも行って自分の精神状態がおかしくないか調べてもらったほうが良いと思う。これは誰も異論が無いであろう。
ネットワークなるものが世の中に普及するにつれて、そういう状況が変り始めた。ネットワークの参加者は顔が見えない。IDやアドレスと言ったデジタルデータによって抽象された存在が唯一認識の対象となる、たとえその裏側に生身の人間がいたとしてもだ。現実社会とは全く異なった人間関係は、同じ日本語でも全く異なった遣われ方をする日本語、そうネット日本語なるものを生み出してしまったのだろうか?
今まで思ったことを面と向かって相手に言えなかった人達にはこれは朗報だ。相手のことを気にせず言いたい放題が言えるからである。デジタルデータという匿名の仮面に顔を隠し、言いたい放題。自分の言葉が急に切れ味を増したかのように錯覚し、無礼な暴言を吐き、言いがかりをつけ、自由気侭に振る舞う。そういうことも許されると誤解してしまう。しかし、私はネット日本語なるものが生み出されたとは思わない。たとえネットというコミュニケーション手段を通じたとしても、それはあくまでもメディアの違いであって、その裏側にあるべき人と人の関係は変らない。単に"Can I come in?"と言ってたしなめられた生徒と同じ状況にあるのだと考えたい。しかし、残念ながらたしなめてくれる先生はいない。
今までの現実社会では出会うことすらできなかった人達とのやり取りをネットは可能にしてくれる。クルマの発明が人間の行動範囲を飛躍的に拡大したのと同じ効果で、コミュニケーションの範囲を大きく広げてくれる。そして、そのメリットを十分に享受するためには誰に対しても受け入れられる言葉遣いが必要である、さもなくばコミュニケーションは成立しない。このプロトコールを理解しない者にとっては、ネットはあくまでも匿名での欲求のはけ口としてしか意味を持たず、どこへも行かず、無限の広がりも持たない。この冷徹な事実がわれわれをたしなめてくれる先生なのだろうと信じよう。