
(Last modified on September 2, 1995)
先日、ある夏の暑い日に友人と話しをしていて「草いきれ」という言葉が出てきた時、私の心には瞬間的に一つの風景が浮かびました。
その時ふと「今の東京にその風景は存在するんだろうか?」と思ったのです。
年中温室栽培の野菜が食べれ、蝉の鳴き声すら聞こえないエアーコンディショニングのきいたオフィスに暮らす現代日本人にとっては、季節のうつろいの微妙さは薄れてきているのかも知れませんね。それでも、じっと感覚を研ぎすませば季節のにほいはまだまだ感じ取れるものですが、それを表現する手段を失ってしまっていてはその感覚は自分一人のもので終わってしまい、文化として他者と共有する次元まで持っていけないでしょう。
一つ一つの言葉の裏側にある共通の原体験が失われてしまっている以上、シーニュとシニフィアンが引き裂かれた言説は新しい繋がりを求めて彷徨い、それを見つけられなかったものは、失われたものとして消え去っていく事になるのでしょう。
共通の原体験を持てない事が言語の共時制を失わせ、言語が共時制を失うことが更に原体験を共有する可能性をむしり取っていくという無限の断絶のスパイラルが目の前に広がっていくような喪失感を覚えます。言語のダイナミズムを否定し厳格な言語の牢獄に囚われる事を肯定するのではないですが、それよりももっと空虚な恐怖感と言ったものを感じてしまうのです。